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福澤研究センター講座2025

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福澤研究センター講座 人物紹介

福澤 諭吉(1835-1901)

大阪の豊前国中津藩蔵屋敷にて十三石二人扶持の下士の子として生まれ、一歳半で父の急死により中津(現大分県中津市)へ戻る。
明治時代を代表する思想家、教育者、言論人。慶應義塾の創設者。
小幡篤次郎、和田義郎他、慶應義塾社中を支える人材を育てた。

小幡 篤次郎(1842-1905)

豊前国中津藩(現大分県中津市)の二百石取りの上士の子として生まれる。教育者、貴族院議員、慶應義塾長、慶應義塾社頭。
元治元年(1864)学塾運営の協力者として福澤諭吉に乞われて出府、福澤の塾に入り、以後教育経営両面から福澤を助けた。

ヘンリー・バックル(1821-1862)

イギリスの歴史家。病身のため学校教育をほとんど受けることができなかったが、読書によって知識を獲得した。1840-44年ヨーロッパ大陸を数回、61-62年エジプトを旅行、さらに中近東におもむいたが、途中熱病におかされて死没した。
自然科学的方法を歴史に適用。主著『イギリス文明史』History of Civilization in England (1857-61)は、日本にも明治初期に伝えられた。

フランソワ・ギゾー(1787-1874)

フランスの政治家、歴史家。保守的王政派の代表としてナポレオン1世に反対し、王政復古を支持し、国王ルイ・フィリップの最後の政府の中心人物として知られる。
1805年10月法律研究生としてパリに出、12年女流作家P.ムーランと結婚。同年ソルボンヌ大学の近世史教授。王政復古で法務省の次官に任命されたが、16年5月辞職。19年内務省の地方行政局長、のち大学へ帰り、歴史家、ジャーナリストとして反動政府を精力的に批判。30年の選挙ではカルバドス県選出の代議士となり、18年間の政治生活のスタートを切った。同年国王シャルル10世の「七月勅令」に反対する63人の代議士の抗議文を起草。新王ルイ・フィリップのもとに七月王政が始ると、内務相に就任、行政組織の立直しに取組んだ。32年10月から39年3月まで文相として初等教育法令(1833.6.28)を打出し、フランス史協会を設立。40年スールト内閣の外相、実質上の首班となる。47年首相。選挙法改正に反対。外交政策ではイギリスとの友好関係を温存、またメッテルニヒと同盟を結んだ。48年の二月革命で政界を去り、以後は歴史研究に専念。
主著『ヨーロッパ文明史』Historire de la civilisation en Europe(28)、『フランス文明史』Historire de la civilisation en France

アレクシ・ド・トクヴィル(1805-1859)

フランスの政治学者、政治家。
『慶應義塾大学出版会 第10回 草創期交詢社の人々 小幡篤次郎(2)―交詢社構想とトクヴィル―』
https://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/koujyunsya/vol10.html

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)

イギリスの哲学者、経済学者、思想家。
『三田評論ONLINE』【三人閑談】小幡篤次郎を読む
https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/3-person-chat/202209-1.html

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